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八木の干拓
 
参考資料
八木の干拓

   所在地:石岡市井関字八木

 大正8年(1919)4月、政府は耕地整理法の実施面の強化、特に開墾事業を資金的に補強する目的で「開墾助成法」を制定した。この大正8年頃は、食糧不足と米価の高騰を背景とする食糧増産の声に応じた、高浜町の醤油醸造業者羽成卯兵衛と真壁町の猪瀬蔵太郎が、大正9年関川村地先の霞ヶ浦公有水面実測64haの埋立免許を取得し、霞耕地整理地区として協同執行による干拓工事に着手したことに始まる。
 大正10年に着手した築堤工事は困難をきわめ、当初の計画に比べて泥土の深さが予想外の10数mに達する難工事で大正15年4月に周囲約4kmに及ぶ内堤及び外堤を構築し、辛うじてその締切りを終わった。羽成卯兵衛は、私財の殆どをこの事業のために投じてしまった。その後も大水のため堤防の決壊を重ね、今やっと約60haの水田が出来上がり稲作とハス田として実現しているのである。

<石岡の歴史と文化 平成8年3月発行> 石岡市歴史ボランティアの会編集 石岡市教育委員会発行
( 登録No.123/09.02.17 )