常陸国分寺由来
常陸国分寺は、今を距る千二百年程前、聖武天皇の御代、天平13年(741年)勅命を以って天下諸国六十六ヶ所に建てられたその一つであって、上古常陸国府の所在地であった府中(現在の石岡市)に置かれました。ひとくちに国分寺とは国分僧寺、国分尼寺両方を併せていうのであって、僧寺は「金光明四天王護国之寺」と称し最勝王経を読誦し、国土安泰、万民息災を祈願、尼寺は「法華滅罪之寺」と称し法華経の功徳を以って未来成仏を祈願したところであります。 倶に皇室の祈願所として、一国の財力と民力をつくして造営せられた護国救世の大道場であり、僧寺尼寺併せて定住僧三十名、封戸五十戸水田二十町歩が付され、寺域は六十町歩に達し何れも東西南北に大門があり、南には大門の次に中門があり、その中に並び立つ幾多の堂塔伽藍は、恰も当時の塾せる仏教芸術の粋を集めた当国一の壮大華麗を極め、就中、雲を突く七重の塔及び金堂は京都東寺にも優る建築であったと伝えられています。殊に当時の経営に施入した一ヶ年の寺料、稲束六万束は全国国分寺中最首位を領し、これに依ってみるも如何に規模の宏大なるかを想像し得ます。実に奈良時代に於ける常陸の文化王国を開発した一大中心地でありました。 然るに、何事にも栄枯盛衰はまぬがれ難く、国分寺創立以来百年間位はすこぶる盛大でありましたが、平安末期より鎌倉、室町時代と地方政治の変遷と共に、漸次衰兆をきたし、織田、豊臣時代に入り天正十八年(1590年)佐竹氏と大掾氏との戦いに際し兵火に蒙り、此の輪奐の美は勿論、列聖の宸翰に至るまで悉く烏有に帰してしまいました。 現在の中門跡には、天正二年(1574年)完成しました「仁王門」が有りましたが明治四十一年(1908年)石岡町国分町の大火により延焼、名工春日作の金剛力士も首、手、足を搬出したのみでした。次いで元禄六年(1693年)本堂を再建せしが、文政五年(1822年)焼失、末寺千住院を移し本堂としました。しかし、これも、仁王門と同時に焼失、現在の本堂は明治四十三年(1910年)筑波四面薬師の一つを移したものです。
現在の僧寺、尼寺共にその跡には中門、金堂、講堂等の礎石が荒草の間に沈んで、ありし日の豪華の世を夢見るがごとく、一千年の沈黙を続けており、その他僧坊、廻廊、食堂、経堂等これに属する建物と覚しき礎石が発見されております。 このように、往時の跡がはっきり残っているのは、全国国分寺でもめずらしく、大正十年(1921年)十月文部省より史跡として指定され、戦後は昭和二十七年(1952年)三月文化財保護法により、「特別史跡」として指定を受けています。
平成元年五月建之 |