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茨城廃寺跡
 
案内板
茨城廃寺跡

   所在地:石岡市貝地二丁目5075番地外

 律令時代の常陸国は、11の郡に分かれていた。それぞれの郡には役所の機能をもつ郡衙が置かれ、それぞれ寺院も存在したようである。
 石岡地方は、古代には茨城郡と呼ばれていた。茨城廃寺跡は、古くから茨城郡寺跡と推定されていたが、昭和54年から三次にわたる発掘調査により、郡寺としての性格・規模が明らかにされた。
 建立年代は、国分寺に先行し、八世紀初期と考えられる。伽藍(主要建造物)配置は、塔と金堂が東西に並び、北に講堂が位置している法隆寺式で、寺域は約1町半四方の規模をもっていたことが明らかになった。また、この調査で瓦、仏像線刻瓦、金・銅・鉄製品、硯、土師器、須恵器、和同開珎などが出土した。
 特に、土器の中には「茨木寺」「茨寺」の墨書銘があり、この寺は茨木寺と呼ばれていたことがわかる。このこたは、全国的にもめずらしく、当時の寺院名を判明する資料として貴重なものである。
 茨城郡の中で、国分寺・国分尼寺が建立される以前の寺院は、茨城廃寺跡が知られるだけである。

   昭和60年1月
      石岡市教育委員会
      石岡市文化財保護審議会
( 登録No.027/02.03.05 )