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舟塚山古墳
 
メモ
舟塚山古墳ふなつかやまこふん (国指定文化財くにしていぶんかざい

 舟塚山古墳ふなつかやまこふんは、全長ぜんちょう186メートルの前方後円墳ぜんぽうこうえんふんで、東国第二位とうごくだいにい県内最大けんないさいだい規模きぼほこり、現在げんざい新治にいはる行方なめかた稲敷いなしきふくめた地域ちいき大豪族だいふごう墳墓ふんぼとみられています。霞ヶ浦かすみがうら見下みおろす台地上だいちじょう位置いちし、出土しゅつどした円筒埴輪えんとうはにわから5世紀せいき中頃なかごろ(1500〜1400年前ねんまえ)につくられたものとかんがえられています。墳丘ふんきゅうは3だんつちり、そのまわりにはみぞめぐらしていて、そのかたち日本一にほんいちおおきい仁徳天皇陵にんとくてんのうりょうています。大和政権やまとせいけんとのかかわりをうかがることができます。
案内板
舟塚山古墳(国指定史跡)

   所在地:石岡市大字北根本597番地外
   指定年月日:大正10年3月3日

 舟塚山古墳は、南に霞ケ浦の高浜入江を望み、西に筑波の霊峰を仰ぐ景勝の地にある前方後円墳である。
 霞ケ浦の両岸には多くの古墳群があり、その中央部の恋瀬川河口付近に舟塚山古墳が存在する。この古墳は、東国第二位、県内最大の規模を誇り、現在の新治・行方・稲敷三郡を含めた地域の大豪族の墳墓とみられている。
 舟塚山古墳の墳丘は、およそ前長186メートル・前方部幅100メートル・後円部径90メートル・前方部高10メートル・後円部高11メートルの規模をもつ。墳丘は三段に築造され、後円部径にくらべ前方部が長く、仁徳天皇陵(大阪府)やウワナベ古墳(奈良県)などに共通する特徴をもっている。周辺の堀は、台地の南側が傾斜面に続くので、北側と同様の規模でめぐらすことはできなかったようである。
 舟塚山古墳の墳丘の発掘調査はなされていないが、地元には、多数の刀が出土したという伝えがある。
 昭和47年の舟塚山古墳周溝確認発掘調査で円筒埴輪が出土しているが、形象埴輪は確認されていない。また、同調査で舟塚山古墳の陪冢と考えられる円墳から木棺が発見され、単甲・直刀・盾などの副葬品が出土した。舟塚山古墳は、これらの出土品及び墳形から、およそ五世紀後半の築造と推定される。

   昭和60年1月
      石岡市教育委員会
      石岡市文化財保護審議会
( 登録No.018/02.01.27 2版 09.12.31 )